COVID-19 の後遺症(疑い)になった話

二年半ほど前にコロナ後遺症疑いになった(少し症状が残るものの現在は寛解している)ので、少しでも啓蒙?になればと思いここに記録します。

僕の場合少し状況が特殊で、もしかしたらただのメンタル面の不調の可能性もありますがご容赦ください。

!!筆者は医療関係者ではないので、あくまでも主観に基づく体験記としてお読みください!!

予兆

2020年2〜3月ごろ、高熱、悪寒、鼻水などの風邪症状を感じました。少し熱がおさまってきたかな〜くらいで咳が止まらなくなり、意を決して医者へ。病院にて「なんかコロナ?とかいうの流行ってるみたいですけどそれですかね笑」と伝えると「ただの風邪だよ」とのこと。この頃は新型コロナウイルス騒動のはじめのはじめで、一般人、医者含め一部の運の悪い人のみがかかる病気という認識でした。

風邪症状も治まってきたころ、味に違和感を覚えました。なぜかいつも食べている納豆がとてもしょっぱく感じます。あとで分かったのですが、これは嗅覚を感じにくくなり味覚が鋭敏になったことから来たものでした。匂いが感じづらくなったこともあり、耳鼻科にかかりましたが、既に風邪症状は治っており、通常の嗅覚障害として治療することに。咳が止まらなくなった後に嗅覚障害、順序は通常のコロナ罹患者と異なっていたものの、条件が重なったこともあり流石に自分でも新型コロナウイルスの感染を疑いました。

しかし、この頃は未曾有の事態に行政の対応が間に合っていない時期。市の保健所に連絡しましたが、風邪症状もなく発熱もしていない私に検査を受ける権利はありませんでした。市販の検査キットなどもまだ出回っていなかったのでただの嗅覚障害患者として通院することになりました。

発症

風邪症状および嗅覚障害が発病してから一年ほど経った頃、私は就職活動を行っていました。一年経っても嗅覚障害は治らず(一般的に半年以上嗅覚が戻らない場合治ることは難しいとされている)、いろんなものの匂いが薄くなったことの悲しみ(この頃付き合っていた好きな人の匂いが分からなくなったことが一番辛かった)はありましたが、障害が起こったのが視覚や聴覚ではなかったことの幸せを噛み締めつつ日々生活していました。

たしかこの頃、第一志望の企業に内定をいただけました。その少し後、卒論だのなんだのやること終わらせて残りの学生生活を楽しむぞ!と意気込んでいたその時に後遺症が発病しました。

最初に違和感を感じたのは強い息切れ、倦怠感です。友人とラーメンを食べようと店まで歩く途中、歩くという行動が非常に辛く、店までの道のりで倒れかけました。なんとか店につき、食事はできたものの、声を出す元気があまり出ず会話はほぼできませんでした。友人に何かあったかと心配されるのが嫌で、無理やりにでも会話していましたが、大袈裟ではなく気絶しそうでした。

そこからが絶望の始まりでした。

20代、若い自分の身体に大きな異変なんか起きないだろう、とたかを括っていた私は数日で治ることを疑わず、家で休養を取ることにしました。しかし、何日寝ても倦怠感、息切れが取れませんでした。例えるなら、長距離走を走った後の疲労感や息切れが常に続く感じです。卒論のための研究どころか日常生活もままなりませんでした。この頃は近所のコンビニやスーパーに買い物に行くと、一週間寝込んでしまうほどで、半同棲していた彼女に手助けしてもらいました。もし一人だったら、と想像すると非常に恐ろしいです。

まともに動けない日が何日も続き、ネットの情報などからも自分の症状がコロナの後遺症に当てはまることはすぐに分かりました。自分が「今後の人生に大きな影響を及ぼしかねない病気に罹患したかもしれない」という事実を受け入れるのは辛かったですが、取り柄の冷静さを欠いてはいけない、と自身を鼓舞し、病院へ向かいました。

一年以上前に風邪症状があったこと、嗅覚障害を患っていること、強い倦怠感で動けなくなったことを医師に伝えると新型コロナウイルスの後遺症ではないか、と診断されました。ただし、私は一度も陽性判定を受けていません。この受診と同時期に抗原検査、抗体検査などいろいろな検査を行いましたが全て陰性でした。また、呼吸器内科や循環器内科、糖尿病甲状腺クリニックなど科にまたがって不調を伝えましたが身体に異常はありませんでした。真偽の程度は定かではありませんが、私に対して新型コロナウイルス感染症後遺症という診断以外はくだらなかったのです。

後遺症について

ここで少し後遺症についてお話します。後遺症には様々な症状が存在しますが、私の場合は嗅覚障害、息切れ、倦怠感、胸痛でした。最も辛いのは息切れと倦怠感で、何が辛いかというと、活動すると悪化してしまうことです。適度な運動が状況を打破するのでは、と思い筋トレなどを試みた時期もありましたが、寝たきりになる時間が増えるだけで何の意味もないどころか病状を悪化させてしまいました。倦怠感の程度ですが、外出は困難、人と会話するのがやっとでした。気合いを出せばシャワーを浴びる程度には動けたので、これでもまだ私の場合は軽度だったと思います。

また、息切れや倦怠感は他者の目に見えません。ほぼほぼ寝たきりになっている私の姿は事情を知らない人からすれば怠けているだけに見えたでしょう。後述しますが、他者から理解を得にくいことや、社会の荷物になってしまい人に迷惑をかけている罪悪感から精神も不調をきたしました。

後遺症と生活

家から一番近いコンビニにすら行けない私はもちろん大学にも行けません。仕方ないので研究室の指導教員に連絡して、お休みをもらっていました。したがって、全く研究が進みません。当たり前ですが、卒業できるめども立ちません。

ここで大学を休学するという選択肢が浮かびます。そのためには保護者(私の場合は両親)からの署名および捺印が必要です。私は心配をかけたくないという思いから親へ連絡することをしていませんでした。実家から遠く離れた大学へ通っている息子が大きな病気に罹った、という心配を背負わせたくなかったからです。しかし、全く卒業できる目処が立っていない私には休学以外の選択肢はありませんでした。

両親に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら電話をかけ、口頭で自分の置かれている状況、今後の予定について話しました。普段そんなそぶりを見せることは全くありませんが、母の声色は泣くのをこらえているように聞こえました。冷静かつ落ち着きが取り柄の(だと自負している)私も電話を切った後、堰を切ったように泣いてしまいました。幼少期を除く今までの人生で、創作物に対する感動や突発的な痛み以外の原因で涙が出たのは初めてでした。

両親および指導教員、内定先と話をつけ休学することになりました。この頃の私は身体的な不調はもちろん、精神的にだいぶ参っていたように思います。小学生や中学生の頃から周囲から「賢いね」と期待され、運もありストレートで志望の大学、全国トップクラスではないにせよその地域ではそれなりの大学、に進学し、なんとか留年することもなく内定をいただくことができました。内定の報告をした時、両親は非常に喜んでいたと思います。ですが、後遺症により内定は取り消し。今後卒業できるか、そもそも自立できるかも疑わしい自分の現状。部活の大会で貰った賞状を渡した時、大学に合格した時、内定の報告をした時、今までの人生で見た両親と祖父母の喜んだ顔がフラッシュバックしました。いっぱい知識や経験を与えてくれて、いっぱい期待してくれて、いっぱい愛情を注いでくれて、ありがとう。感謝の気持ちと同時に期待に応えられない自分の情けなさに涙が止まりませんでした。周りへの罪悪感や、健康な人間と自分の現状の比較をして毎日のように号泣していました(まともに散歩すらできない私は窓から道路を歩いている人を見て泣いていました)。泣いたことなんてなかったのに。人の精神は簡単に壊れます。

心療内科にかかると不安障害と鬱の診断がくだりました。まさか自分が抗うつ剤を飲むことになるとは思いませんでしたが、理想ではなく現実の自分と向き合うように努力していました。この時点では後遺症の発症から半年ほどが経過しています。

治療と快復

後遺症に関して、未知の病気であるため治療法が確立していませんでした。そのため、私はBスポット療法と呼ばれる、鼻腔から綿棒を入れ、上咽頭に塩化亜鉛を擦過するエビデンスに乏しい治療を受けていました。この治療法ですが、非常に痛みが強く大人でも涙が出てしまうほどでした。加えて、治療効果があるというエビデンスが薄く、本当に効いているのか?という不安もありました。もちろん未知の病気に対する信頼性の高い療法など存在しませんが。週に一回ほど耳鼻科でBスポット療法を行い、毎晩抗うつ剤を飲むという生活を送っていましたが、どちらも効果は体感できませんでした。

「治療」ではありませんが、心身ともに参っている自分に旅行のお土産をくれたり、心配だと連絡をとってくれたり、周りの友人たちがひきこもっている私との関係を続けてくれていました。また当時付き合っていた彼女には生活の補助や精神面のサポートをしてもらいました。この事実は非常に大きく、心が弱っている自分には、自分の存在する意味に思えました。今思えば、友人たちの存在が治療に本気で取り組む活力になったと思います。

決心した私は朝日を可能な限り浴びること、元気の良い日だけ疲れない程度に散歩すること、もし体調が悪化しても絶対に治す気持ちを忘れないこと(最も重要)、の三点を意識して生活を送ることにしました。すると、徐々に歩行できる距離が伸び始めました。もちろん、歩ける距離が短くなることもありましたが、ポジティブシンキングを忘れないように気をつけました。

このような生活を半年ほど続けると、ある程度長距離の徒歩も問題なく行えるようになりました。ただの散歩と日光浴、それと心の持ちよう。結局精神論、というわけではないのですが気持ちや考え方が行動につながって、その行動が病気に作用するように感じました。さらに半年経つころには、短時間なら友人と遊びに出かけられる程に快復しました。決心が固まってからは一年ほどでそれなりに動けるようになったので、運が良いほうだったのかもしれません。

現状と罹患して感じたこと

現在、私は卒業に向けて研究の日々を送っています。無事に二回目の就活も終え、体を労わりながらではありますが、友人と遊びにも出かけています。

なんとか自立できそうな予感がしていますが、この後遺症により、二年の空白期間が生まれました。生涯賃金や若い年齢で活動できる時間を失ったという面では大きな損失です。ですが、学ぶことも非常に多くありました。後遺症そのものだけでなく、後遺症から学んだこともこの記事において伝えたいことなので一つ一つ書いていきます。

健康のありがたみ

今までの人生では大きな病気にかかったことはありませんでした。健康なことが当たり前、という感じですね。ある程度身体を酷使しても得られるものが大きければそれで良い、という考えを持っていたかもしれません。仕事、趣味、愛情、人生には様々な事項がありますが、健康を欠いた瞬間に全てを失います。今後の人生では健康の優先度を低く見積もらないよう気をつけたいと思います。

気持ちの持ち方

私は何もかもメンタルでどうにかなると語るのら嫌いです。実際、心の持ちようが病気を治すことはないと思います。しかし、今回の私がそうだったように、心の持ちようが行動に影響を与えて、間接的に病気を治すことはあります。文章にしてみると当たり前のことかもしれませんが、実際に体験してみると「気持ち」が人生に与える影響の大きさをバカにはできなくなりました。病気の治療だけでなく、人生の選択全てに関わってくることだと思うので、気持ちの持ち方を意識しながら生きていこうと思いました。

病気の人間への接し方

寝たきりになるのは人生で初めてでしたが、とても辛かったです。社会と隔絶されて他者からも理解を得にくい、それでも身体は動かない。これはコロナ後遺症だけでなく鬱などにもあてはまること(そもそも私も後遺症ではなくただの鬱かもしれない)だと思いますが、必死にもがこうとしている時にただただ怠けているだけだと思われることは筆舌に尽くし難い辛さです。今回の後遺症ではこれが一番辛かったです。インターネットなどで「鬱は甘え」「コロナ後遺症なんて存在しないだろ」などの文言を見るたびに胸が締め付けられるような思いでした。これがこの記事を通して最も伝えたいことなのですが、患者の方と直接関わる機会がなくても、一人でも多くの人が「こんな病気で苦しんでる人いるんだなあ」という気持ちを頭の片隅に置いてくれたら少し社会が優しくなる気がします。コロナ後遺症、ひいては病気に関わらず、こんなことで苦しんでいる人がいるのかもしれない、と思うと人は人に優しくなれるのかな、と感じました。

あとがき

ながながと重苦しく悲観的な駄文を垂れ流しましたが、私は元気です。

みなさんの周りにも色んな人がいると思いますし、基本的に人は支え合って生きています。ただし、相手のことを支えられなくなったら無理に支える必要は無いと思うんです。でも相手の苦しみだったり悲しみは想像してあげたほうがたぶん良くて、この記事を読んでくれた皆さんにも「運悪く辛い思いしてる人もいるんだなあ」とか自分がしんどくない程度に少しだけ思ってもらえたら嬉しいです。偉そうなこと言ってる僕も全然できてなくて、人を傷つけてしまっては反省の繰り返しですが。

あー、就職してから上手くいくかとか、結婚できるかとか、色々不安だけど、外出て歩ける喜びを胸に今日もがんばろ!!!!!!うんこして寝る!ブリブリ!!それでは!